牧師・宣教師のストレスと燃え尽きについて(12)-環境

この間ストレスについてのセッションがありましたが、
その中で印象的だったのは、
「カンボジアはトラウマを持つ社会なので、ストレス度が高い」
という話でした。
つまり、社会構成員全体が傷を持っている中にいると、
その雰囲気というかなんというかに、
人の心は影響されるってことなんでしょうね。

まぁそう言われてみれば、
人って環境に影響されるものだよなぁ、と改めて思いました。

植物が天候や土から影響を受けるように・・・。

というわけで、牧師の置かれている
1.「環境」
2.「土壌」
・・・について考えてみたいと思います。
(今回は、環境。)


1.「現代」の「日本」という環境

プレッシャー(風雨)が強すぎたり、
愛や報い(陽)が全然なかったり、
することが多すぎたり(隙間がない)、

基本的に、現代日本は高ストレス環境ですよね。

そんな環境の中で、
雑草のようにしぶとく生きるしかないのか・・・!?


そんな中にある日本の教会には、
他にはない状況があるのも、当然といえば当然です。



画像


というわけで今回は、
日本の牧師の置かれている環境を、思いつくままに適当にあげてみたいと思います。
といっても、
社会学的に正しいかとかは知らず、あくまでも個人的な感想ですが・・・。


2.「現代」「日本」の「教会」という環境


<伝道が困難>

日本は伝道が困難な場所だと言われています。
ということは、教会や、牧師にとっては、
非常な熱意を持って、力を尽くして働いていても、
なかなか報われることがない、
結果を見れないということになります。


<病んでいる人が多い>

日本は高齢化もさながら、
精神的な病で苦しむ人も年々増えています。

教会がそのようないろいろな苦しみを共に出来たら
すごくいいことだと思いますが、
日本だと、とかく牧師のみが頼られがち。


例えば、1回の「死にたい」という電話でも、
受ける方は相当心に負担になりますよね。

それが毎日だったとしたら・・?

辛い話を聞いたりすると、
誰でもダメージをうけるものです。

それが、ひっきりなしだったとしたら・・?


もちろんそれ以前に、どんな牧師も
教会員の深い悩みや苦しみといったものに寄り添っていくわけで、
生死が関わってくること、
死期を迎えている方などのケースを常に
一つ二つは抱えているわけですが、

日本の牧師は、そういう「普通」の牧師業に加えて、
真夜中の電話、緊迫したやりとり、激しい攻撃やはけ口の対象になることも多く、
カウンセラーでもない(訓練も受けていない)のに、
精神的負担の量が多すぎると思います。

「責任の重さが、やりがいです」
という自衛隊か何かのキャッチフレーズを見かけましたが、
なんか重すぎる場合を考えると
「・・・」って感じでした。



<移動が多い>

日本の牧師は往々にして、ひっこしが多いです。
教会にもよりますが。

別れていくこと、失うことによる心の負担もですが、
新しい土地に慣れ、新しい人と一から関係を築き、
新しい役割で、何もかも手探りのような中で働くのもまた大変です。

環境どころか、しょっちゅう引っこ抜かれてる草みたい~。



<日本の教会は貧しい>

a.教会から謝儀をもらっているプレッシャー:

教会は献金で全てをまかなっています。
その中から、牧師への謝儀(謝礼)も支払われます。

日本の教会は人数が多くないので、お金がありません。
そういう立場にいる牧師は、
教会の方々が身を削って献金しているのを知っていますから、
何ともいえない気分になるわけです。

身を引き締め献身の思いを新たにするならいいのですが、
「オレ、いないほうがいいんじゃないのか・・?」
とか、
(実際、「自分への謝儀が教会の負担になっている」
と感じて職を退いた牧師もいるとか。)
「謝儀に見合うような働きを出来ていない・・・」
とか、
不自由さや
へんなプレッシャーになってもまた微妙。

「恩義」「負い目」を感じて一生懸命働くのもいいかもしれないですが、
でもそれってなんか違うような気もしなくもないし・・・
(雇われ人じゃないんだから・・・)

特に地方では、数人の信徒しかいないなど、
牧師の謝儀を払うのが厳しい教会も多いのです。

それでもなるべく牧師謝儀だけは精一杯払おうとするので他に回らなかったりし、
結局、教会の活動費=牧師の活動費/牧師の活動=教会の活動
みたいなことになって、
教会というよりは牧師がせっせと働くべし、
みたいな図式にもなりかねません。

そのへんの葛藤は、
聖書的にすっきり解決がついている人もいるでしょうが、
もともと神経の太い人ならともかく?
何かしらのプレッシャーはあると思います。


b.経済的不安:

昔の日本では、牧師=開拓=清貧みたいなイメージがあったようで。
(今も?)
今は、別に極貧である必要もないと思いますが、
でもやはり、世の中の基準に比べれば少ないのが、
一般的な日本の牧師謝儀の状況だろうと思います。

なので牧師家庭では、子供は国公立のみとか、
妻や子供、時には牧師自身が、アルバイトをすることが必要になったり、
働き場を移ることを考えなければならなくなったりもします。

もちろん、
必要は全て神様にお委ねしているし、
祈って与えられていくし、
全てを献げて生きるのはむしろ喜びなわけですが、
でも、想像してみましょう。
いつもお金がなかったら・・・。
お財布に全然お金がなくて買い物に来ている時の気持ちとか。(←発想が貧困・・。)

お金に頼っているわけじゃなくても、
お金がないことがストレスになることは当然あるでしょう。

お金なんかなくても幸せになれる、なんて言えるのは、
(ダビ先生に指摘されたことですが)
本気で食べ物も手に入らないほどお金に困ったことがないからなんだと思います。

お金に対する誘惑も増えるかも?



<牧師への期待が高い>

繰り返しますが、
日本人の牧師に対する期待度は高い!と思います。

期待に応えようとがんばったら、大変だし・・・
期待されるがゆえに攻撃の対象になることも、意外にありがちです。
家庭で、教会内部で、他教会で、世間で。

よく「牧師につまづいた」という人がいますが、
なんでかと思うと、
牧師への期待がとても高いのです。

「まぁ、しょうがないじゃん、あの人性格悪いんだから」
と普通なら思うようなことでも、
「牧師で性格悪いなんて、ありえない!!赦すまじ!」
とかなるわけです。

親に完全を期待しているからこそ怒りまくる反抗期みたいなものでしょう。
この高い牧師への期待はどっからくるのか、
なんか不思議です。

あまりいろいろなモデルケースを見たことがないので、
現実離れした聖人イメージを描かれてしまうのか?
仏教僧などからの「特別な人」のイメージが
聖職者というものに対してあるとか?

(仏教のお寺をそのまま教会に置き換えてイメージしていたり、
逆にとても西洋なモノをイメージされていたり、というのはよくあるので・・・)

牧師が僧服?も着なけりゃ祭服も着ず普通だったりすると
「うわっ、なんか普通のかっこしてるよ!!」
「うわっ、くつろいでるよ!!!」
と、
なぜか「普通」なだけでスキャンダルに(笑)。


それに関連して・・・↓

<牧師は見られている>

牧師は霊的リーダーであり教師ですから、
ロールモデルとしての役割はもちろんあるわけですが、
ニュージーランドやカンボジアでの牧師は、教会がみんなで輪になっている、
その中の一人、というような気負いのなさがどこかにあります。

韓国の教会は逆に、牧師の地位がすごく高く非常に敬われていて、
それを象徴するかのように講壇もめっちゃ高いところにあったりします。

日本の牧師は、なんだか家庭的な小ささの交わりの中にいるのに、
着せられた権威があるような感じで、

たとえば、礼拝の中でも、
牧師対会衆で向き合っていること、
牧師だけが何かをしていることも多く、

そういう礼拝のあり方は、なにげに教会のあり方そのものでもあって、
人が神様を見ようとするとき、まず牧師を見てしまったり、
という位置づけに日本の牧師はいると思います。

神学生だったとき、
講壇でどのように振舞うかを教わった時のことを思い出します。

「なんにしろ目立つのです、講壇の上は。
靴下の色まで、見られているんです、牧師というものは」
・・と言われました。

「みんなで神様の方を向いて礼拝すればいいのに、
なんで私だけみんなの方を向いてなきゃいけないんだろう・・・」
とちょっと思ったりしたものです。


日本はそれでなくとも「人目」という価値観があるので、
みんな人のことが気になってしょうがない人々なんじゃないかと思います。
そんなわけで、見られている度の高い日本の牧師。
ま、有名人ほどではないでしょうけど。

こういうのは、多分、
なったことがないとわからないプレッシャーで、
ダビ先生とこれまた熱い議論?になったことがあるのですが、

先生:「なんで人気があってお金もある、そういう歌手が自殺したりするんだ」
私:「プレッシャーでしょう」
先生:「え~。新聞もプレッシャーとか言ってたけど、
    みんなが俺のファンだったら俺は嬉しいけどな~」
私:「でも、ちょっとでもだめだと嫌われるかもですよ?」
先生:「う~ん、それはまぁ嫌かもね。
    ・・・でも俺は多分、この歌手は誰かにフラれたんだと思うよ」

(なにかで王様の話になった時)
私:「イギリスでも日本でも、皇族はストレスが多くて大変そうですよね」
先生:「なんで!?一番えらくて全てを持ってるはずなのに」
私:「でもいろんなプレッシャーがあるし。自由もないし・・・」
先生:「え~。俺が王様だったら、何でも好きなことやるけどな。
    だって俺が王様なんだから」

みたいな感じでした。なんてまともなんだダビ先生、ある意味。(笑)。


またそれに関連して↓


<自分らしい働きができない>

自分が本来願っている働きができなかったり、

「自分の賜物が本当には生かされていない」
「自分はこのために召されたんだろうか?」
・・・
などの思いがあると、
それは大きなストレスになるんだそうです。

牧師になる人でも、
「この人は、本当は『ユース担当牧師』が合ってるんだろうなぁ」とか、
「この人はリーダーシップというよりも、修道者のように神に仕える方が合ってるんだろうなぁ・・・」
とか、
「牧師というより神学者」とかいう人も、
いろいろいます。

でも日本の特にプロテスタント教会は、
まだまだすそ野が狭いく、なんと言っても人材不足。

「献身します」
と言ったが最後、神学校→牧師というルートに乗せられてしまいます。

というか、他に道がないっていうか。

外国の教会だと、もっと広いいろんな可能性があるんですけどねぇ。

子供専門牧師とか、
音楽専門牧師とか、
様々な伝道団体の主事とか、
教会スタッフとか、
働きの種類もいろいろあり、本当に自分の賜物を生かしやすい気がします。

日本の教会は、まず牧師からして足りないから、
という理由で、何でもかんでも献身者を牧師にしてしまうけど、それでいいのか~~??

さらに、日本の教会は、
成熟度はいまいちでも歴史だけは長かったりもし、
教会のいろいろなことが「こういうもの」と定まってしまっていて、
なかなか変われないところもなきにしもあらずです。

そういうわけで牧師は「こういうもの」
と決まっている中に送り込まれる牧師は、
決まった枠(働きやイメージ)に自分を押し込まないといけない、
というがんばりや、
無理が生じたりもします。

本当の自分を出して、それを受け入れてもらって、
のびのび「自分らしく」牧会出来る人はいいのですが・・・
あまり一人一人の個性というものが尊重される社会ではないという背景もあり、
無理して「牧師」してる人、
「なかなかいい牧師になれない」と、
賜物はそれぞれなのに、間違ったことで自分を責めているような人も
多いのでは。


<少数派>

イスラム圏などに比べれば、
命の危険を感じるような迫害とかはない日本ですが、
クリスチャンがここまで全くの少数派な国もまた、
珍しいとえば珍しいですよね。


カンボジアは「一緒がいいね」文化なので、
人がいればいるほど「いい」こと、
安心し、楽しく、自信が持てるという傾向がある気がします。
逆に人が少ないというのは、「よくない」「みじめな」こと。

「一緒がいいね」
画像

6人乗り。。


日本もちょっと似てるかも・・・?

「みんなやっている=やっていい」
「人がやっていない=やってはいけない」
人と同じなら安心。

こういう価値観がある日本で、
「人と違うこと」少数派でいることは。
それだけで結構しんどいことなのかも?


あ、全然、牧師に限らないっぽいですね・・。

むしろ、牧師くらい違っちゃえば、
普通の隣人でクリスチャンっていうのよりラクかもしれませんが。

でも理解されないこと、誤解、人々の仲間に入れない、
などによるストレスはあると思います。



<養い・休みがない>

牧師に休暇がないのは、
全体的に休暇のない日本、という環境も多いにありそうです。

牧師は、ゆったりしているように見えても、
結構ドレインされるというのか、
いろいろ注ぎだしてげっそり疲れるような仕事です。

でも助ける側、与える側に徹さざるを得なかったりもして、
牧師個人の精神的なニーズは、なかなか満たされる場がないと言えるでしょう。

霊的な足りなさ、自分の知識や力の欠け、
そういったものに苦しんでいる牧師も数多くいます。

霊的な養いを受けたいから、と休暇を取ろうにも、
誰が代わりに説教したり訪問したりお葬儀をしたりしてくれるのか?みたいな感じで、
結局働かざるを得なかったり。

さらに、家庭と牧会の間に緊張関係があったりすると、
心の休まるところもなかなかありません。



<やることが多く、人が少ない>

日本の教会って、忙しいですよね。
特に小さい教会は忙しいです。
やることは変わらないわりに、人が少ないので。

例えば会員が10人くらいで、
5人くらいの中心メンバーがあらゆる奉仕をしている教会。
彼らは礼拝の後、役員会をし、
その後、CS教師会(ほぼ同じメンバー)をし、
さらにその後、クリスマス準備委員会もやって、
・・・みたいなことになってたりします。

(全然大げさではありません。。)


とにかく人がいない、という状況があります。


<高齢化>

年を重ねたクリスチャンが多いのは、
日本の教会の宝だ、と思います。

がその一方で、
高齢の方が多い
=若い人、いろいろ共に奉仕できる人が少ない
→牧師の仕事/孤独度が増える

あるいは、教会全体の雰囲気が、外向きよりも内向きになる
→牧師の「牧会」(教会員のお世話)の仕事が増える

・・・などの危険はあるでしょう。

それ以上に牧師にとって辛いのは、
お葬儀が多いということかもしれません、
意外に。

高齢化で、増えるお葬儀。
よく、一週間に何件もお葬儀があった、などの話も聞きます。
全部が教会員ではないかもしれませんが。

大仕事であるにもかかわらず、
全く予測も予定することも不可能な、
突然事件のように飛び込んでくる、「お葬儀」。

牧師の場合、お葬儀は、式の時だけの仕事ではありません。
丸々数日かかりっきりの仕事と言えるでしょう。

~~お葬儀の忙しさ~~

教会員であれば、大抵、召される前に牧師を呼びます。
牧師は常に病気の方の精神的・霊的ケアに関わっているからです。

召された場合も、牧師は一番に飛んで行く必要があります。
親族の方もどうしていいかわからないことが多いので、
牧師がリードしてお葬儀の準備をします。

様々な手配や式のプログラムの作成などだけでも、大急ぎなので結構大変です。
しかも実は、
納棺式、前夜式、出棺式、葬式、火葬前式、埋葬式(日本基督教団式文参照)と、
式自体もたくさんあります。
(もっと後では、記念式などもあります)

~~精神的打撃~~

教会の中で誰かが召されることはショックなものです。

ちょっと思い巡らしてみてください。
自分の仕事仲間など。
「この数十人の人たちが、年に数人の割合で召されていくとしたら」
戦場ですねぇ。

親しい人、身近な人が召されるのは、
たとえ天国に行くとわかっていてもショックでかなしいものです。

その精神的痛手を、親のように愛し心にかけ、深く関わってきた牧師は
かなり、
しかも頻繁に、受ける状況です。



<霊的に戦いが激しい>

この世の中には目に見えるもの以上に、
目に見えない力が大きくあると思います。

悪の力は巧妙で、人を上手にだまし、
神様から離そうとし、救いの喜びを奪おうとし、
神様の/教会の働きをなんとか妨げようといつも働いています。

霊的戦いについては、この一項目に書ききれるものでもなし、
かといって1ページ設けるのもなんなので、よい本をお読みください。。


霊的戦い、というのを勉強したときに、「オーノー」と思ったこと。

西洋人の講師が、悪霊の影響というものについて話しているときに、
例として、
「ある人が、異教のお守りみたいなものを、
かわいいからと持って帰って来て飾ったら、
その後、霊的にとてもダウンして、神様が見えない暗いトンネルに入ったようになり、うつっぽくなり…etc.
それを捨てたらまた祈れるようになって、霊的に回復した」
みたいな話をしてくれたのですが、
「そんなこと言ったらアンタ、うちの裏は神社だよ」
・・・とか、思いました。

もしそんなちっぽけなモノでもそんなに影響があるとしたら、
そこらじゅうそんなものに囲まれてる
日本人はどうなっちゃうのさ・・・みたいな。

目に見えるわけではないのではっきり言うことはできませんが、
日本は、霊的なバトルフィールドとしては、
もしかしたらかなり苛烈なのかも?

日本全体の精神的に病んだ雰囲気、
社会的に過酷な状況、
というものの背景には、
いろいろと目に見えない霊的環境があるのかもしれません。


・・・

さて、こういういろいろな外からのダメージを受けている日本の牧師ですが、

次回は、そういう私たちの
「土壌」について考えてみたいと思います。
お楽しみに~。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 5

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント

くりあい
2010年06月22日 10:40
あやちん、ご無沙汰しとります。
元気ですかぁ?…
相変わらず、オモチロイ、ハラオチする考察だわ~本にして欲しい(笑)
そして、楽しそうで何よりです
スカイプしましょーね
ぶんこ
2010年06月23日 01:28
くりあいちゃん~♪元気ですよぅ、お陰様で。そちらは元気かい?そして↑のウサギ、かわいっ…。うんうん、スカイプしようしよう~~!
ichikawanosakura
2010年09月04日 12:19
するどいですね。あと最近は、個人情報という言葉がうるさく言われるようになり、信徒の問題はすべて牧師だけが把握しているという状態になりやすく、その面でも牧師は信徒の問題をだれにも言えずに孤独になりやすいように思います。信徒が互いに祈り合うというのが案外日本の教会ではないのではないかと思えてなりません。
ぶんこ
2010年09月14日 23:14
そうですね、まさに。守秘義務もありますし。
教会員同士のゴシップがなければ、教会の中で心を開いて自分の問題を分かち合えるのかもしれませんが…。

この記事へのトラックバック