牧師・宣教師のストレスと燃え尽きについて(11) 信仰のバランス

バランス。

何につけても思わされるのは、バランスです。

人助けにおける、「突き放した関心」。
つまり相手に共感しながらも一定の距離を保つ、
これもバランス。

聖職における「熱心と、リラックス」のバランス。

日本全体の「仕事と休み」のバランス。

女性の働き人の場合、「女性である自分と、伝道者である自分」の、バランス。

などなど。。

いろいろありそうなので、
ここではとてもベーシックに「信仰」のバランスについて考えたいと思います。


そもそも、人々が宗教を敬遠するのは、
ある種の「信仰してる」人のアンバランスな感じがこわいのだと思います。
まぁ無理もない。

でも逆に、本当にバランスある生き方には信仰が欠かせない、とも思います。


例えば、「信仰的」であることと「現実的」であることのバランス。

わかりやすい例は、病気になっても癒しを祈るだけで医者に行かないとか、
そういう「信仰」いきすぎ系。

でも逆に、どんなに死にそうでも祈らない、
医療や人の力、責任でしか病気や死を捉えられない、
それもまた、「現実主義」いきすぎのアンバランス?

ま…多分普通はどっちもやります。



・・というわけで、クリスチャンの陥りやすいアンバランスを2つほど考えてみたいと思います。

1.できる―vs―できない のバランス
2.よい―vs―悪い のバランス


1.できる―vs―できない

<大きなビジョン=信仰的?>

大体、私の世代は「夢を持つのはいいことだ」で育てられてきたわけです。

だからわりと「何かしなければならない」「何かにならなければならない」という強迫観念があり、
そのせいですぐ会社を辞める人とかニートとかが多いのかもしれず。
あと結婚願望が強いゆえにノイローゼみたいになっている人とかも多くて、
夢があるがゆえに現実の自分/祝福を受け入れられない、
というのもなんだか、
願望と現実の悲しいアンバランスだなぁと思ったりします。

で、それが純粋なクリスチャンになると、さらに複雑化する気がします。
だって、神様がついてるんですから。出来ないわけないじゃない、みたいなことになり。
あきらめにくくなる・・・??


もちろん、人間の能力ばかり見てうつむいて「ムリだ」と思うのではなく、
上を見上げて「神様には出来る」と思えるのが、クリスチャンの希望のすばらしさです。

また、ビジョンが与えられたら、それを信じて進むのは、大事なことです。

でも、ちょっと疑問に思うのは、
神様には出来る=だから自分は何でも出来るはず/べき、みたいな
妙に高いプレッシャーとか、
誇大妄想的?になって、やたら身に合わない大きな夢ばかり描いてしまうとか、

そもそも「与えられたビジョン」ではなくて「ただの達成目標」みたいになっているとか、
そういう場合もあるんじゃないか?と。



例えばアブラハムは、人間的には無理なことを神様に「こうなるよ」と語られて、
上を見上げて信じたわけですが、
それは神様から言われたことであって、
アブラハムが「こうしてくれますよね、できますよね?信じますから」と言ったわけではなく・・・。
「アブラハムにはこうしてくれたんだから、私にもお願いします」と言ってみても、
神様は一人一人に違うビジョンを持っておられるので、
誰にも彼にも同じことをなさるわけでもなく・・・。

何がいいたいかというと、
「あなたのソレは、ホントに神様から来た夢?」
ってことです。



自分の限度、形、「与えられた分」を知ることは、いいことだと思います。

誰もが万能でなく限界があるのは、聖書的です。

「それぞれ異なった賜物を持っています。」(ローマ12:6)

「一人一人に、”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」

「皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。
皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。」(1コリ12:7,29)


では、こういう聖句はどうなるの?という人もいるかもしれません。


「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)

「誰でもこの山に向かい「立ち上がって、海に飛び込め」といい、
少しも疑わず・・信じるならば、そのとおりになる。」(マルコ11:23)


クリスチャンは何でもできる?
確かに祈りは聞かれるんですが。
でもその有能・万能・全能感・・・だけを握り締めて、あるいは求めて、走り続ける人は、危ないと思います。

とはいえ、クリスチャンだってただの人間さ、としょぼくれているのもどうかと思いますが。


私には神様の造って下さった限度がある―VS―神様にはどんなことでもできる 

の、バランス。
が大事。


というわけで、
これから牧師/宣教師になろうとしている人向けのワークを考えてみました。



** work1 目標について **

1.「信仰的」なビジョンと、「現実的」なビジョンを書き出してみましょう。
2.どうしたらそれらが可能か5ステップで述べましょう。 
3.それらのステップ一つ一つが妨げられる可能性を話し合ってみましょう。

このワークの目標:
「ビジョン」が高すぎたり、非現実的な場合、それに気づく。
目標を低く設定しなおす。


理想や夢をぶち壊すようで申し訳ありませんが、
そして不信仰みたいで抵抗があるかもしれませんが、
「期待を下げる」ことは、ストレスを防ぐために大事です。




** work2 限界について ** 

分かち合い:自分の限界について知っていることを出し合いましょう。
   
(例:Aさん「私は24時間は寝られますが、それ以上は無理ですね。」
   Bさん「僕はワインを4本以上飲むと意識がなくなります」
   Cさん「1週間に1度は1人で喫茶店に行かないと、いらいらします」など、何でもよし。)

このワークの目標:
他の人との限度の違いを知ることで自分の限度・範囲を知る。




あと、よく教会で「何人以上の礼拝出席者」を目指すとか、そういう「ビジョン」が語られますが、
よっぽど神様から来たものならいいのですが、

(自分があんまり目標思考じゃないせいで、そういう
「ビジョン」系の話がぴんとこないだけかもしれませんが)

数の大きさにこだわるのも、それで人をあおるのも、人間的に思えたりしなくもなかったり。

「多くの人にイエス様を知ってもらいたい」というのが悪いわけではないのですが、
タラントのたとえなどでも、神様の関心は「成果の大きさ」ではなく「忠実さ」にあるような。


かくいう私も、
どうせ教会堂を建てるなら、体育館みたいにでかいのを建てようよ、とかは思いますけど。
でも神様が見せてくれるビジョンは、きっとそれぞれに違って、
そして大きさや人数だけではないと思います。

ビジョンばかりに追われて、目の前の人の魂を心にかけることを忘れてはなりません、
という意味の言葉を、ANCCの先生が教えてくれました。


「神にビジョンを祈り求めよ。でもそれ以上にこの一人のために祈れ。」




2.いい―vs―わるい

<聖と俗の二元論?>

牧師は「聖なる人」であると同時に、「親しみのある人」でもある、というような難しさがありますよね。

おいおい、神であり人であるイエス様じゃないんだから。

と言いたくなりますが、

あ、でもイエス様が内に住んでいるんだから・・・イエス様のようであるはず?

とか思ったり。

ここでも、バランスが必要になります。


「おいらはただの人間さ~」と開き直るのも、
私たちに聖なるご自分の霊を与えてくださった方に対して
失礼きわまりないし、

だからといって「わたくしキリストの分身です」みたいになっても、
どっかの教祖ですかってかんじだし。



例えば、
「自分は霊の人、選ばれた、愛の人だ」と思ってるとか、
「自分は汚れた、失敗者で、裁かれる」と思ってるとか?

こういうのは、アンバランスなのでしょうね。


クリスチャンはよい人間?悪い人間?
聖書は、なんと言っているのかと考えてみると。

クリスチャンは:
【よい人間?】

「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。」

「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」(1ヨハネ3:9、14)


【悪い人間?】
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」(1ヨハネ1:8)



って、どっちやねんヨハネ。

とつっこみたくなりますが、

出身教会のK先生の素敵なメッセージによれば、
クリスチャンはまず、実際は神の子です。
「本当は悪い人間なんです」と思いがちですが、
そっちが本当の自分じゃなく、
神の子、が本当の自分。
今は、神の子としての姿が現れる途上。

なんだそうです。


なんか、トットちゃん(黒柳徹子さん)に、校長先生が言い続けてくれたという
「君は、本当は、いい子なんだよ」
という台詞みたいだなと思います。


このどうしようもないわたしたちに向かい、

「君は、本当は、いい子なんだよ」

本当の私たちの姿を見て語りかけてくれ、そうなれる力を与えてくれる。
聖書っていうのはやはり桁外れにすごいことを言う本だと思うわけで。

「君は、本当は、神の子なんだよ」

その愛の中で、私たちは自分の弱さも受け入れられるようになるのだと感じます。



それにもかかわらず、牧師などとなると、
自分の汚い部分を出せない感じになり、
結果いい人ぶっているみたいなことになり、
自分でもその部分を認めてあげないために、否定されたその「人間的」部分が鬱積、
結果的にセクハラなど曲がった形で噴出、などというのは、
残念なことだと思います。


牧師もクリスチャンもみんな、ただの人間であるわけですから。
その愚かさ、弱さをもっと出せたらいいんでしょうけどね。

聖さと下世話さのバランス。

キリストの似姿に変えられていくことへの希望と、
俗なる駄目人間である部分を認めてあげることの、バランス。

神の・強い・正しい・聖なる人である部分と、
ただの・弱い・だめな・いやらしい人である部分のバランスが、
大事。



** work1. あなたは何者? **

この質問を考えてみてください 
 
質問1.「自分は善い人間だと思っていますか?」
質問2.「自分は悪い人間だと思っていますか?」



** work2. 期待を下げる **

ディスカッションしてみましょう。
自分への期待を下げることは、神様への期待を下げること?
「それは、できないでしょ」と思うことは、不信仰?


私の中にもそういう変なひっかかりがなきにしもあらず。




実は、ANCCでこの「牧師のストレスに関する学び」の発表をした時の

題は、
「わたしはキリストではありません」I am not the Christ(ヨハネ1:20)
でした。

ちなみにこれは、私が聖書の中で大ファンな
バプテスマのヨハネの台詞です。
(あ、ヨナタンも好きだけど。)

画像

いなごと野蜜を食べていた・・からじゃないですけどね。


誰にでも「おまえらこのまむし野郎!」みたいなことをびしびし言うところも好きですが、
人の期待をあっさりかわして、

わたしはできない。わたしはキリストではない。

と言えるところも好き♪


イエス様ご自身も、どんだけ人に

「あなたは何が出来ますか?あなたを信じられるように、何をしてくれますか?」

と聞かれて、それに応えなかったり、
「父が~してくださらなければ、誰も・・・できない」と言っているかをみると、
「できない」とか言える方だったのねと思います。


これがすっきり言えないと、
つまり「できない」こと、「~でない」ことに
罪責感とか迷いとかあったりすると、
無理してそういう自分だと思い込もうとして不自然・不自由になるとか、
ストレスのもとになると思います。


先の写真は「食べているフリ」写真で、
実際の反応はこれ・・・。
画像

「・・・むり」




聖書にはステキな「バランス」「超バランス」みたいな言葉がいっぱいあります。

「弱いときにこそ強い」
とか、

「わたしは一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。
・・わたしは、他の使徒よりずっと多く働きました。
しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(1コリ15:9,10)
とか。

この「わたし=0、でも神=全て」
というのが、絶妙なバランス感覚!

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この記事へのコメント

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2010年02月14日 22:52
「あなたのソレは、ホントに神様から来た夢?」っていうのについてですが、K先生は、神様から来た夢でないものは、ずっと祈り続けていられない、って言ってたよ。でも、それって、相当ちゃんと祈る、ってことだろうね。。。ふふふ。
ぶんこ
2010年02月15日 14:24
なるほど。それだったらわかりやすくていいね♪
星子
2010年02月15日 14:31
あはは。文ちゃんのリアクション面白いね。カエルとタランチュラ食べたって、すごいね。私も絶対無理かも・・・。では、また。
ぶんこ
2010年02月17日 01:10
かえるとクモがあの中ではまだましだったんだよ・・・。他の2人はかなりいろいろまるごと食べてたよ~。でもみんな「のどにひっかかってる」とか言ってて帰ってきてからアイス買いに行って食べた・・・。
星子
2010年02月17日 13:56
カエルとタランチュラがまだまし!?ひえ~!!あ、遅れたけど、誕生日おめでとう!!では、またね。
ぶんこ
2010年02月17日 23:46
ありがとう♪

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