牧師・宣教師のストレスと燃えつきについて(10)自己認識・自己受容

これまでさんざん「いかに牧師が燃え尽き症候群になりやすい職業か」
ということを見てきましたが、
ここらで「ではどうしたらいいか」を、考えてみたいと思います。


<燃え尽きから回復するプロセス>


回復した人々の体験をまとめると、大体次のようなステップが踏まれるそうです。

1.「問題を認める」段階
単なる疲労ではなく、心理的な要素が深く関わっていることを自覚すること。
(自らは「完璧な」人でなければならないと思いがちな背景が、本人の「自覚」を難しくする。)

2.「仕事から距離をとる」段階
仕事との間に心理的な距離をとる・思いを断ち切る。
(休職することでようやくこの段階を迎える人が多い。)

3.「健康を回復する」段階。心身ともにリラックスする。

4.「働きの場を探す」段階。 「外の」世界との関わりを取り戻し、新しい価値観にあった仕事を求める。
(休職前と同じ仕事に復帰した人は、20 人中1 人しかいなかった。)

まとめると、自分が変えられることと環境を変えることの両方が必要ということでしょうか。
それゆえに、燃え尽きは人生を変える神様の機会ともなりうるわけです。
このような回復のプロセスには、平均して2年くらいかかるそうです。


ところでこれを読んでいて、これらの項目は、

「自己認識・自己受容」
「バウンダリー」
「リラックス、休養」
「職場環境の改善」

というような、
燃え尽きを防ぐことにも通じるように思いました。

これらは確かにつながっていて、
1がないと2もないという意味でプロセスなのだと思います。

今回はこのうち、
「自己認識」「自己受容」について考えてみたいと思います。


ただし、誤解のないように言うと、
燃え尽きになった人にこういうことが欠けているというわけではありません。
そもそも燃え尽きになったことを自分の弱さと考えることはないと思います。
むしろ心ある尊い仕事をしたからなのです。

燃え尽きになりやすい人というのが仮にいるとすれば、
一般的にはできる人、やさしい人、気遣いの人、まじめな人などとされる人のようです。
もう少し言うと、
自分への期待の高い人、それゆえにがんばる人は、
環境によってはなりやすいと言えるかも知れません。
でもともかく、誰でもなるのです。

「名誉の負傷」(私訳)という本で言っているように、
教会は、燃え尽きで帰国した宣教師を、
「オルガンを磨きあげ、
トランペットを取り出し、
愛と栄誉を持って迎える」べきだと思います。
英雄を迎えるように。
まさに「名誉の負傷」なのですから。


画像

Passion fruitsの木。

<自己認識>

自分を知ること。
自分が「何であるべきか」ではなく、
「何であるか」を知るということです。

「こうありたい」自分、「こうあるべき」自分を生きる、
若いうちはそれで結構やっていけるのです。多分。
なので、若い人には理想に生きることのできる独特のすがすがしさがあり、
私も「大人は現実と妥協しているようでいやだな」と思っていました。

でも最近は、自分の実態を知らないのは悲劇だ、と思うようになりました。
若い時で言えば、
自分を知らないがゆえに、全然違うものを目指して挫折していたり、
自分の動機を純粋だと信じ込んで人を断じたり、
全然合わない相手と結婚してしまうということも、起こり得ます。

そして年をとって自分を知らないのは、さらに、
周りにとっても自分にとっても悲劇。。

牧師や宣教師が、自己認識が甘いとどうなるのでしょうか。

「自分を知らない」→「人」を知らない→間違った人間観や教義を説きかねない
「自分はできる」と思っている→無理をし続ける→倒れる
「自分は正しい」と思っている→支配的になる→教会で独裁的になる
「自分は愛の人だ」と思っている→尽くしすぎる→倒れる

って、想像が暗すぎ?・・・

でも、
本当に幸せな人生は自分の限界を認めるところから。
ここからしか始まらない!


[グループワークの案]
自分の限界について、知っていることを出し合ってみましょう。



<自己受容>

神様的に言えば「受容の受容」
―つまり、神様に受容されていることを、自分が受容する
ということなわけですが、
これが、意外にできないものですよね。

神様には受容されているのに、それを受け入れられない自分。

自分はこうでなければならない、と思っている、
そのゆえにあがいている、がんばりすぎている、というのは、
あせり、幻滅、その他いろいろとストレスに。

例えば、白鳥の子があひるになりたくてなりたくて、がんばる、
というのは、神様のみ心にかなっていないように・・・

例えば、
いつも何かを追求していて、自分を高めようと努力している牧師。
有能な働きをしたりするのですが、
その根底にあるのは自分への不安や否定感で、
周りの人にも、休息を与えてあげられない。

(ま、全然向上心のないのも問題かもしれないし、バランスですかね・・。)

あるいは、いつも自分を責めていて、罪責感でいっぱいの牧師。
いつも「自分は足りていない」あるいは「~過ぎている」と思っていて、
その根底にあるのは自分はもっとできるという前提。
無意識に「がんばれ」みたいな説教を繰り返し、
その生き方、自己受容のなさから、福音と全然違うメッセージを人々に伝えてしまう。

・・・とか?


自分に厳しかったり、自分に対する期待度が高い人は、

ええ~!?うそだ、そんなのだめでしょ!?

というくらい、ハードルを下げるといいみたいです。
特に日本人は、何かと規準が高すぎるので。

例えば、とある国へ遣わされた宣教師は、
メッセージでこう報告しました。
「私たちは、最初の年の目標を達成しました」
1年目の目標はなんだったと思いますか?
「サバイブ(生き延びる)です」。
なかなかいい目標設定だと思いました。


自分の弱さに気づくこと&自分にダメ出しばかりしないこと。
「わたしは自分自身を裁くことすらしません」(パウロ)

自分の失敗を認めること&自分を笑うこと。

自分の罪を認めること&神様の赦しを受け取ること。

自分や他に期待しすぎないこと&神様に期待すること。

人の評価にとらわれないこと&神様の評価を思うこと。

最善を尽くすこと&何か「して」なくても、自分がいるだけで十分価値があると知ること。

自分の限界を受け入れること&自分に与えられている賜物を認めること。

・・・やっぱバランスが大事ですかね。


さらに加えると、
。。。
人間観?の見直しが要る気がします。

「~とはこういうもの」などの「観念」が
無意識にけっこう間違っているものなので。

「~らしくなりたい」と思ったりして、それにとらわれている、
そして納豆クリスチャン(「~であらねば」「~せねば」のネバネバ)になり、
人にも自分にも不寛容、
けどもっとダイナミックな人間像を見たら、そもそもそれ、前提が違うんじゃない?
という。

神様は私たちよりずっと、懐が深い、と思います。
「それも意外にアリなのね」と思うこととか、
天国ではきっといっぱいあるんだと思います。


「私はどういう人間なんでしょう」、
「女性/男性とはどういう存在なんでしょう」
「クリスチャンとは何なんでしょう」
「宣教師とは、牧師とは、実はどういうものなんでしょう」
「そもそも人間とは、本来どんなものなんでしょう」


それらの答えを、伝統や周りの人にではなく、
神様に、聖書にのみ聞いていきたいものだと思います。


本来のあなたはこういうもので、
神様の目にはこんなにも美しく、またこんなにも不純で、
本当はこんなにも素晴らしく、またこんなにも愚かで、
そしてその全てを愛されているんだ、ということを、
もっともっと知って、
受け入れていく時に、
神様の意図した私たち自身を、
「牧師だから」「宣教師だから」というような枠組みによってではなく、
もっと自由に、豊かに、楽しく、
生きられるようになるのではないかと思います。

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