牧師・宣教師のストレスと燃え尽きについて(6)―「対人援助職」特有のストレス―

いろいろな観点から牧師のストレスをみているシリーズの6回目ですが、
今回は、対人援助職としての牧師職についてです。

<対人援助職とは?>

心理士、看護師、介護福祉士、保育士、教師など、簡単に言えば
人のお世話/手助けをする仕事ではないかと思います。

牧師の仕事も多くの面でこれに当てはまると言えます。

内容は、相談に乗ることから、
「これ、映画の中じゃないんだよね・・・?!」と思うくらいの究極な事態まで、
多岐にわたるものとお考えください。

でも、これらのドラマチックな出来事は大抵秘密裏に起こっています。
守秘義務があるので。

ちなみに、牧師職の「普通の人間援助職にはない特徴」として、
藤掛氏はこう書かれています。

「牧師がとことんまで人に関わる。
それも深く、魂の世界に、生死の世界に、関わっていく。
それもありとあらゆる人に対処していくわけです。これは、すごいことです。」

「(カウンセラーであればある程度相談の分野や方向性や時間が決まっているわけですが、)
牧師先生には方向性がありません。
複雑で多彩な問題に、
それも自分の引き出しにないような問題に対処していかなければならないのです。

・・・さらに、世間で相手にされなくなったような人たちをも
受け止めるのも牧師のすごいところです。

・・・カウンセラーから見ると、ありとあらゆるひとたちに、
それもありとあらゆるときに、対応させられている人間援助専門家だなと思います。」
(おふぃす・ふじかけhttp://fujikake.jugem.jp/?eid=1121#sequel


<燃え尽き症候群(burnout syndrome)>

さて、実はこれらの対人援助職は、「やりがい」がある一方で、
「燃え尽きやすい」職でもあるようです。

「(燃え尽き症候群は)職種別には、教師、医師、看護師、ソーシャル・ワーカーなど、
社会的にモラル水準への期待度が高く、仕事への献身を美徳とされる職業に多い。」
(ウィキペディア http://labs.doda.jp/wpedia/燃え尽き症候群 より)

70年代中頃以降、個人主義化により、
親類や友人などまわりの人間関係が希薄になって、
ヒューマンサービスの需要が急増した頃に増えてきたという見解もあります。
(参考:久保真人氏論文http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2007/01/pdf/054-064.pdf

燃え尽き症候群というのは、簡単に言うと心のガス欠だそうです。

「心のガソリンが使うたびにどんどん減っていって
やがてはカラに限りなく近づいてしまいます。

心のガソリンとは何かというと、
やる気だったり、情熱だったり、好きという気持ち、意欲、
愛情、優しさ、安らぎ、責任感、夢、等々、
僕達を動かす様々な感情です。」
(根本裕幸 カウンセリング・サービス心理学講座)


「「バーンアウト」は、理想に燃え、使命感にあふれた人を襲う病といわれていますが、
日々接する「サービスの受け手」の数が、バーンアウトの発症と密接に関係している
とする報告が多数あります。
・・・人間関係や仕事の過重負担が引き金となりますが・・・
サービスの受け手の「心」ない言葉や態度、周囲の低い評価により増幅され
ます。」
(「本音医療!メルマガ」
http://archive.mag2.com/0000145665/20050514080000000.html?start=40より)


対人援助職と燃えつきを結ぶ、そのキーワードとして、
リアリティ・ショック」、「感情労働」、「境界線」、「報い
この4つを考えてみたいと思います。



<リアリティ・ショック>

リアリティ・ショック(クレイマー、Kramer, M.)とは、
「理想や期待と現実のギャップから生じる、現実に対するショック反応。
期待はずれで望んでいないことに対する
人間の社会的、身体的、情緒的なものを含む総合的な反応」
だそうで、
看護師の離職率が1年目にとても高いのは、この「リアリティ・ショック」によるものが大きいそうです。

どの世界にもある、学生と現場のギャップ。
学んだことで頭をいっぱいにして、できるつもりで行き、理想と現実のギャップにびっくり。

でも特にこういう職に就く人は使命感・義務感・責任感が強すぎる一方で,
トレーニングや経験が十分でないことがそのギャップを大きなものにしています。

神学校と教会の場合もしかり。

どんなに実践的な神学校であったとしても、誰かがいての実習は、
現場で一人になり、教えてくれる人もいない状況とは全く異なります。

神学校にもよりますが、
専門的な「対人援助」の訓練は、ほとんど無に等しいと言っていいのではないかと思います。

「牧師ほど人間関係を扱う複雑なことをしている集団なのに、何も訓練を受けないで出て行く、
各自勝手にがんばってくださいという形で現場に送られる」(藤掛氏/おふぃす・ふじかけ)
職もめずらしいと私も思います。

宣教師もまさにリアリティショックとカルチャーショックで大変なことこの上なし。

訓練中にいろいろな「現場での難しさ」を聞いても、
どこかで自分は例外だ、自分の場合にはきっとうまくいく、と思っているのです。
ところが、そうではない現実があります。

さらに、カルチャーショック。
人を助けるどころか、人の邪魔になるばかりのような異文化での最初の生活。
思うようにならない語学に加えて、精神的、霊的にもダウン状態。
「イエス様を伝えに来た自分が、自分と神様との関係すら保てないなんて」とほぼパニックに、
などという話も聞きます。

理想に燃えた人は、自分への期待度も無意識に高かったりするのでしょう。

すぐに現実を認識/受容できる人もいるかもしれませんが、
理想と現実のギャップを埋めようとして
-理想的な自分になろうとして-
-あるいは理想をまわりにごり押しして-
がんばってしまうような人も多いのではないでしょうか。



<感情労働(emotional labor)>

肉体労働、頭脳労働、という言葉がありますが、「感情労働」(Hochschild,1983)
という言葉は割と耳新しい言葉かもしれません。

自己の感情をコントロールし、こまやかな配慮をし、
相手の立場に立ち、言葉を選びながら、問題に対処していく、などなど、
「こうした・・・笑顔や言葉がけなどを含めた労働を強いるものを感情労働と呼ぶ」
(福祉施設における職員の自律性獲得についての一考察 
 http://www.asahi-net.or.jp/~UV3K-KMGI/jiritu2syo.htmlより)
(「・・・」は「略」です)

「身体や知識だけでなく感情の移入を必要とする労働作業を意味する」(Wikipedia)
そうです。

端的に言うと、「心を使う労働」のことです。

燃え尽き症候群の要因に関しては、
以下のようなことが必ず書かれています。

「相手の気持ちを思いやり、
勝手放題にふるまう相手を受け入れ、
相手の私的な問題にまで分け入って問題を解決することを求められるような職場で…
過大な「情緒エネルギー」を消費することが求められる」
(前出「本音医療!メルマガ」より)

「対人関係は、表面的でなく、相手の人格、生活史に踏み込んだ理解が必要な場合に、
多大なエネルギーを消費するものです。
・・・ヒューマンサービスの現場で多大な情緒的資源のやり取りがおこなわれ,
それがバーンアウトの原因となっている (Zapf, 2002)」(前出 久保氏)

「他人の立場を思いやり, 誰かと信頼関係を築くには
多大な情緒的エネルギーが必要とされる。
・・・自らの役割に誠実な人ほど, 日々接するクライエントと,
このような感情のやりとりを繰り返していく中で, 疲弊し,消耗していく。」
(高橋克樹氏 http://www.christ-counseling.gr.jp/public-41.htmlより)

情緒的資源のやりとり。情緒エネルギーの消費。消耗。というような言葉で
なんとなくイメージできるような。

心を使う。心を注ぐ。心を燃やす。心にかける。
心をすり減らす。心を痛める。

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「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。
だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」
(2コリ11:29)

弁護士や医者であればクライアントとのかかわりはその「件」が終われば終わります。
しかし牧師の人間援助関係はもっと長く、
しかも人々の人生の非常に重要な部分に、深く関わる職でもあります。

「人と深く関わり、とりわけ人の生死と関わるような援助者は、
様々な喪失感のダメージを負いやすいため、
自分自身のケアが大変難しいと思います」(藤掛氏)

喪失に関して言えば、
日本の牧師も宣教師も移動が多く、
出会いと別れ、喪失と再構築を繰り返しますが、
この移行-「植え替え」による心身の疲労、ダメージが小さくないことも、
見落とされてはならないような気がします。


<境界線(Boundaries)>

境界線については、また今度詳しく書きますが、
ここでは対人援助職において境界線がどう大事なのかを考えたいと思います。

「あの時、自分がもっとちゃんと関わっていたら、
こうならずにすんだのではないか」

「今自分が手を放したら、この人は死んでしまうのではないか」

苦しんでいる人と関わる牧師は、そのような思いに駆られるときがあります。

でも、
(とても微妙なバランスではあるのですが、)
「自分がやらなくては」というのは、
「自分で背負い込んで神様にゆだねていない」状態に陥るがけっぷちあたり
だと思います。

バランス・・・
つくづく大事だと思います。

画像


ただでさえ、感情管理が長期化するこの職です。
直接会う頻度や人数、
どれだけ密接にかかわるか、
強いられての環境か、
などによってもストレス度が変わるそうですので、

どの分野に、どんな境界線を設けるべきか。。
考えさせられます。
相手との距離のとり方を失敗すると、仕事と自分を同一視しすぎて燃え尽きたりするのだそうです。

「尊い献金をもらっているのだから、何でもしてあげることが仕事」、
「じっとしていることは悪いこと」と思いこんでいる、
あるいは、逆に
「お金出して雇ってるうちの牧師に働いてもらわねば」
のような考え方によって何でも要求される、
そういうことがあるなら、
それはなんか関係のあり方が間違っているのでは・・。

「例えば、利用者からの依頼を常に受容することが慣行化されると、
それ自体が労働強化となる。
・・・かといって、・・・単にこれらの要求を切り捨てることも出来ない。
その結果、利用者との距離の取り方自体が分からなくなる。」
(前出 福祉施設における職員の自律性獲得についての一考察より)


心の癒し系の働きは、その性質上、牧師が「抱え込む」可能性が高くあります。

そこには、牧師個人の問題として、
「助けたい」=頼られることで力を感じられる、という「力への欲求」
人を支えることで自分をいい人と信じていられる「共依存」
拒絶を恐れ、ノーと言えない、
自分のアイデンティティーを守ろうとして過剰にやりすぎる、
誤った「信仰者」イメージによる「~ねばならない」などの強迫観念
・・・
などの問題が隠されていることもあります。

最近読んだ本「べてるの家の『当事者研究』」の中に、とても興味深い言葉がありました。
以下、引用します。

「ほんとに、こんなに一線を引いていていいのかな?と思うほど何もしていませんでしたが、
現実にはそれでどんどん酒をやめていく人がいたんです。
最初は偶然だと思っていたんですが、繰り返し繰り返し、患者さんが酒をやめていくわけです。
『あんなに一生懸命やっていたのに、酒をやめた人は0だった。それがどうして何もしていないのにやめていくんだろう?』と悩みましたね。
 そのときにはじめて、医者は何をすべきで、何をしちゃいけないのかという、『自分の役割の使いどころ』ということを考えるようになりました。
こちらの熱意を出すばかりではなくて、少し立場を引いてみると、
『この人たちも酒をやめたいんだ』と気がつくようになったんです。
そして、そういう思いを大切にしたいな、と思うようになりました。
 わたしの治療意欲が満々のときには、患者さんたちは『先生がなんとかしてくれるだろう』と考えていたと思います。
患者さんが退院すると心配で、退院直後の患者さんの様子をバイクに乗って見に行ったこともありました。
そうすると、「先生が来てくれた!」という感動で、その日から飲んじゃうんですよね。
・・・そういう関係を、医者も患者もなかなかやめられないんですよ。
でも、これは治療的な関係ではありません。
助けると言いながら、実は医者が患者さんに『見捨てられたくない』と依存している状態なんです。
・・・わたしが学んだのは、そういう関係から一歩引くことでした。
 正直なところ、最初は『彼らを主役にしていいんだ』ということが信じられませんでした。
『あの駄目な人たちを、この熱意にあふれた、思いやりにあふれたわたしが、どうやって救い上げるか』ということしか頭になかったですから。
・・・駄目に見える患者さんを相手にしていると、自分がほんとうに「いい人」「いい医者」であるように錯覚してしまう。
・・・「いい人」役がやれて、とても居心地がいいんですが、それは本人が気づかないうちにどんどん落とし穴にはまっていく状態なんですね。」
「医療者として大事なことの一つは、自分が無力なこと、限界があるということを知ることです。」
(川村敏明医師インタビュー<わきまえとしての「治せない医者」>より)

すごい奥深くないですか?

以下の文章にも同じことを見つけました。

「人間には自分の無力さに対する根強い恐怖心があります。

・・・人を助けたいという援助者の心の奥底には、
同時に全く正反対の思いがあることを自覚しておく必要がある・・・

人のために助力したいという心情は愛の発露だけではない。
相手を支配したり力を奪いたいという隠れた喜びや欲望があるというのです。

・・・牧師をはじめとして援助職にある人間も、ケアというかたちで自分の力を行使し、
成果を上げることで自分の存在を確認しているところがあることに注意したいものです。」
(高橋克樹氏 http://www.christ-counseling.gr.jp/public-41.html
(本当はもっと詳しく書いてあるので、ぜひ本文をお読みください!)


「助けたいというのは、コントロール欲ではないのか?」

「あなただけがわかってくれる、理解してほしい、励ましてほしい、
愛してください、
という願いに/期待に対して、ノーと言えるか?
言うべきなのか?」

共感しつつ、境界線をしきつつ。このバランスが対人援助職の難しいところですね~。


<報い>

愛される、認められるなどの情緒的インプットが少ないこと、
また、成果が出にくいというのが対人援助職の特徴です。

人間相手って、思うようにはなりませんしね。
時間をかけても相手は変わらない、その無力感や徒労感。
のれんに腕押しのような、「報われ感」のなさ。

良かれと思ってしたことが裏目にでることもあります。
批判されることも、
「恩をあだで返される」的なこともあります。

そこに尋常でないエネルギーが注ぎこまれたにもかかわらず、思い通りに事が進まないとき、
心を注いだにも関わらず、心無い反応が返ってくるとき、
消耗が進行するのです。

でも、どんなにうんざりしても、
どんなに結果が目に見えなくても、
神様は知っておられ、私たちの思いを超えて働いておられ、
天には報いが蓄えられているのですから。



最後に、わかりやすかった記事をもってまとめとします。

『日本では、人の「生」「死」に関わる聖職にあるものは、24時間365日「聖職者」と
してあらねばならないというふうに思っておられる方もいます。

しかし、「聖職者」が「労働者」であることは事実です。「適正」が求められること
はいうまでもありません。

「バーンアウト」というのは、いわゆる「聖職」にあるものが、
「聖職者意識」を量、質ともに「過度」に要求され続けることで
情緒的に余裕がなくなり、キレてしまう現象という側面がありそうです。

「聖職者」には、「情緒エネルギー」を十分補給する「聖職者でない時間」も
必要なのではないでしょうか?』

(前出「本音医療!メルマガ」より)

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この記事へのコメント

ゆきえ
2009年08月07日 00:31
なんかすっごい考えたよ!
私もコーチにしろ家にしろ、こういう側面というか、
はたらきをしている部分があるからかも。
ほんと、感情労働だなあと思ったし、
自分が奏思っているのかもしれないけど、
報いのとこではちょっと涙が出た。
くるしいよなあって思ってしまったよ。

牧師、宣教師も同じなんだね。
その渇きを覚えて祈ろうと思ったよ。
ぶんこ
2009年08月08日 15:44
本文に書き忘れましたが、太字はby引用者(私)です。
ゆきえへ:そうだよね~。どんな働きでも、報いとか、評価とか、自分自身で結果が感じられなかったり、傷ついたりすると、自分のモチベーションややる気を高く保つのがすごく難しいと思います。 
どこかで「一人充電」みたいなのが必要になるよね。でもいいこいいこして欲しかったらいつでも言ってね(笑)。

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