牧師・宣教師のストレスと燃え尽きについて(4)ー「先生」職特有のストレスー

いろいろな角度から牧師職を考えてみたいと思いますが、まずは「先生」職としての牧師職から。
(ここでいう「先生」職とは、
教師や医者や法律家や政治家など、
人を導く者として正しくあることを期待されている、影響力のある、
それだけに犯罪を犯すとものすごくひんしゅくを買う、
つまり、人相手であり、なお公人っぽい扱いになる職、
そして本人も使命感をもっている、世に言う「聖職」
のような意味です。)

先生職は、人格職ですよね。
人格そのものが役割に不可欠という、そういう職です。
牧師もその人格が仕事に直結する部分がどうしてもあると思います。

たとえば、礼拝で牧師がただ
「聖書はこう言っています」
と言うだけで終われれば、どんなに楽か。
でも、説教というものは、いくら聖書をとりついでいるだけだといっても、
やはり説教者の人格と霊性から切り離せないものです。

メッセージの準備の段階からして、自分の成熟度や霊性が、
神の言葉を受け取って人に伝えるのに、影響してしまう。
(重圧。。。)
さらにその言葉を「生きて」いなければ、という意味でも、
日々の生活が常に問われています。
(常に重圧?。。。)


1. 役割と人格

<役割=自分!?>

例えば、「歌のおにいさん」がいつもあのノリでいいお兄さんでいなければならないとしたら、大変です。多分。

職の役割と自分自身を分けて捉えることができない。
これが「先生」職にはつきもののストレッサーです。

例えばアルバイトの店員さんは、
制服を着ている間は「いらっしゃいませ~」と愛想よく接客していても、
タイムカードを押して、普段着で店を出て行くときには、
客を見向きもしなくてよいわけです。
「店員」の役割は終わったのですから。

でも世に言う「聖職」の人は、24時間、365日、その職の役割をやめることはできません。
(他人も自分にも)。
その「役割」が自分自身のほとんど全てになる職ですよね。

でも、どんなに生まれながらの人格者とか、
(いないか...そんなん。)
牧師になるために生まれてきたような人でも、
やはり「役割」と「自分自身」との間には葛藤があると思います。
その役割自体、期待が高すぎるわけですし。

私の場合は、例えば、服を買うとき。
「かわい~」と思うものがあっても、
「でも牧師でこれはちょっと・・・大体いつ着るんだ~」とか。
・・くだらん葛藤ですいません。
そもそもほとんど服買わないじゃん。と一人ツッコミ。
(しかも海外でジャージの牧師とか、ドレスアップする宣教師たちを見て、
最近はそんな葛藤もなくなりましたが。。)


「DOING」(やること、仕事)と「BEING」(存在そのもの)が
一緒くたにならざるを得ない「先生」職。

本来「DOING」は「BEING」の中に含まれるものなのが、
逆になる感じ。

使命感を持ってやっているだけに、「働きと自分を同一視しすぎ」になる傾向もあります。

そういう、「切り離せない」感。。。
境界線のなさ、についてもう少し考えてみると、


<人格と仕事が切り離せない>

人前に立つ者、教える者、リーダーである以上、
一人前の、常識ある社会人でなければならないし、
普通はそれ以上の何かひいでたところや、
立派な人、であることを期待されます。

どこか親のような役割でもあり、
親の成熟度、考え方、価値観が子供に影響するように、
何十人、何百人もの人への影響力があります。

牧師という職業柄、言動が予想以上にインパクトを人に与えてしまうこともあります。
そういうわけで、
「教えるというのは模範になること」、
「人をつまずかせてはならない」、
「自分が言っていることを実践していなければ」
「個人的な弱さは出してはいけない」
などなど、
プレッシャーははかりしれません。



<力量(信仰?)と仕事が切り離せない>

教師とか専門職とかアーティストとか、
「先生」職は、自分の持っている「才」によって
結果/成果が変わってくるように思えてしまう仕事でもあります。

例えばタレントが、自分の「魅力」次第で人気が変わるとか、
作家が、自分の「才能」次第で作品の出来が変わるとか、
それだけでも相当なプレッシャーだと思いますが、

牧師の場合、それが何にあたるのかというと、先にあげた人格や、
信仰までも、そういった「才」の一つのようになってしまいかねません。

信仰で仕事をしていく、とか、考えてみて下さいよ。
・・・怖っ!

仕事の失敗=信仰の失格!?
「あの人が教会を離れたのは私のせい」
「僕がダメだから教会が成長しないんだ」
そして罪責感、ふさわしくなさに対する葛藤。。。とか?

(逆に「成功」してるのは俺の信仰のお・か・げ、とか
おごり高ぶっても怖いですけど…)

普通の仕事は、
仕事で失敗しても、自分自身が「すべて」否定されるわけではないのです。

でも、牧師は自分のすべてを仕事(牧会)に要求される働きであり、
それだけに、
ものすご~く根本的な部分で自己否定感を持ってしまう可能性があります。



<特に牧師?>

勝手な意見ですが、他の宗教の指導者より、
またカトリックの神父などより、
プロテスタントの牧師って、、大変なんじゃ?と思います。
なぜかというと、

他の宗教は、
「どうしたら仲間に入れます?」
「ではこうやって手を洗いなさい」みたいな、
(すっごい適当な描写ですみません)
行動から入る感じです。

拝みにいくとか、善行をするとか、
決まった「行動」や「儀式」などを忠実にこなしていれば
「信仰心のある人」になれ、
それを熱心にやると「熱心な人」になれます。

ようするに、「ちゃんとやって」いればいいのです。


逆にキリスト教は、
まず心の奥底、beingが本当に変えられることから入る感じです。
世界観がひっくりかえり、あり方、生き方が変わる、
そういう、キリスト教の
心と、全人格、全生活、人生がかかわっている信仰のリーダーとして、
牧師もただ何かを「ちゃんとやって」いればすむわけではないところがあります。

そしてなぜプロテスタントかというと、
カトリックの聖職は平たく言えば、特別な存在、世から離れた存在で、
教会の中でもはっきりした異なる役割があります。
礼拝や教会のあり方そのものも、神父の肩にかかっているものは、
牧師のに比べると少なく、
(例えば週報とかもカトリックの本部から印刷されたのが届いたり・・・
礼拝のメインも説教ではなく、聖体拝領だったり・・・)
カトリック全体のおおらかな信仰の雰囲気もあって、
聖職者に求められるもののプレッシャーはやや少ない気がします。

でもプロテスタントの聖職はもっと日常的に身近な存在なので、
簡単に描写すれば家族に対していつも「先生」でなければいけないお父さんのように、
親しいけどいつも模範でいないといけない、というところがあります。

福音派のプロテスタントにはストイックでまじめ、真摯で一心な雰囲気があり、
そして自分で自分の教会を養うシステムなので、牧師の肩にかかっているものが大きいです。




2.役割葛藤 role conflict


<役割とは?>

「役割」というのは、専門的に言うと「類型化された期待に対する類型化された反応」だそうです。
相手によって、状況によって、
その期待に応じてふさわしさを選びとって、
公的にも私的にも、
私たちが自然に演じているものです。

英語では、いろいろな役割を演じることを
いろいろな帽子をかぶるという風に表現したりするようです。

私のイメージでは、ジャグリング(写真)です。

牧師のようにたくさんの役割を期待されるというのは、
いっぱいのボールを操るような感じ。
器用な人は、いくつものそれを上手にこなしますが、
いっぱいあればあるほど、緊張感は増します。
一つ落としたら、全部が崩れてしまいます。

画像


例えば学校の先生とかお医者さんとか。
上から横から下から、いろいろな人からいろいろな役割を期待され、かつ自分には自分なりの理想とやり方があり、それらにいつも引き裂かれる感じ。
そういうせめぎ合いというか
心の葛藤をともなう調整をしなければならない場合のことを、役割葛藤というらしいです。
 (http://www.socius.jp/lec/09.html 
 野村一夫 ソキウス 社会学の学習展示室より。)

正確には「役割内葛藤」(intra- role confict)と「役割間葛藤」(inter- role confict)とかあるみたいですけど。
役割距離とか、役割のずれとか、いろいろ面白かったので、詳しくは上記のサイトをご覧下さい。

というわけで、『牧師の役割葛藤』ロールプレイを考えてみました。

【ロールプレイ】
やり方。一人を牧師役にします。
他の人は、役員、求道者、他の教会の人、業者さん、家族など、様々な役になります。
そしていろいろな自分の要求を牧師に持っていきます。
・・・
あんまりひねりのないロールプレイになってしまった。
でもやってみたら面白い?かも。

【ちょっと脱線】
考えてみると、役割葛藤というのかはわかりませんが、
神様ご自身、愛と正義においてひきさかれる経験をされたお方ですよね。
人を裁くのと救うのを、究極の形で両方成し遂げられたわけです。
あの十字架で・・。

そこから始まっているクリスチャンというのは、それ自体、矛盾した存在っていうか。
“罪人”であり“義人”(赦されて神様の目に正しいものとされている)であったり、
ルター曰く「全ての人の上に立つ自由な“君主”であり、全ての人の“奴隷”」であったり、

聖職につく人はとりわけ、相反する不思議なアイデンティティーに引き裂かれ?ている存在なわけで、
“ふさわしくない” ⇔ “権威・選び”
という、相反するもののはざまで、
まさに、バランスとりながらのつなわたりですよね~!

“仕える” ⇔ “リードする” という「サーバントリーダー」とかもそうだし。

この、相反するものが、しかし同時に存在しうる感じは、まさに
100%神であり、100%人であったイエス様、
この方によってのみ可能となる気がします。

脱線終わり・・・




まとめると。。

牧師職は、人格と役割が切り離せないので、
人格と役割の間の葛藤があり、これがストレスになります。

しかも牧師職は、前回見たように役割が多いです。
なのでその役割間での葛藤も多くなります。

また役目がはっきりしていない、不明瞭さもあります。

「切り離せない」系の問題については、他にもいろいろある気がしますが、
また今度にします~。

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この記事へのコメント

Ichikawanosakura
2009年06月25日 20:38
なかなか深いです。
ぶんこ
2009年06月25日 20:55
いや、なんかまとまってなくてすみません・・・
Miz
2009年09月05日 10:50
私は信州の山間部で牧師をしています。気がついたら25年も牧師です。書かれた記事を見ていろいろと思い当たることもありますが、私の場合、若い日に「存在の喜び」を知ったから、今日まで来られたのかなあと思うことと、私の教団(日本同盟基督教団)では同労者の交わりに慰められることが多いのだなあと思います。
 存在の喜びとは、
「存在の喜び」については、私は神学生時代に宮村武夫先生との出会いを通じて教えられました。それは、私の働きではなく、存在そのものを喜んでいてくださる神様を知ったことです。次の記事をご覧になってください。http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20090703/1246596053
ぶんこ
2009年09月05日 20:57
Mizさん:大先輩から補足していただけると本当に感謝です。ありがとうございます。この宮村先生のシリーズ、止まらなくなりますね!「いつのまにか自分の奉仕のわざをもって自分を支えようとする律法主義的な傾向と、そういう自分を評価する神の目と人の目への恐れが私を縛っていたのであった。けれども、このとき、神は私の働きのいかんにかかわらず、私の存在そのものを喜んでいてくださるのだということに気づかされたのだった。」の一文に感動しました。

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